はじめに
私が、色々とネットに書き込もうと思ったのは、実は「人助けのつもり」がきっかけでした。誰も読まない小説(ここには置いていません。)を書いているのは、今でも、人助けのつもりです。だから、AIに読んで批評してもらうと、いつも、「説明が多過ぎる」と言われます。そのために、登場人物に語らせることになります。
このサイトでも、最初は、サイト利用料のお金を出して伝えたいことを書きました。でも、少しでもお金が入るなら、自分のやる気が起きる。だから、一部有料にしてみました。
しかし、1か月にたまに1人くらい、無料部分だけしか読んでくれませんでした。でも、既に、3年分、サイトの利用料を前払いしています。ほったらかしにするには、もったいない。
だから、『自分が書きたいことを書こう』と思いました。まあ、言えば、独り言です。人の日記を盗み見するのは、興味を持てることかしれません。でも、それは、若い女性が書いた場合です。何と言っても、私は老齢の男です。若い時代とは、色々と見方が変わりました。しかも、いつ死ぬか分かりません。だから、面白くないでしょう。なので、独り言ですね。やはり。
2026/9/1
日本を見捨てる神々…和尚が明かす「2025年7月」の裏側と、次に訪れる危機 (出典:コヤッキーチャンネル×三木大雲/2026年8月29日公開動画より要約)
三木大雲和尚が語ったのは、神仏が日本を見捨てて去っていく「善神捨国(ぜんしんしゃこく)」という衝撃の現象だった。
人々の間に「怒り・貪り・痴(おろ)か・闘い」という4つの悪(四悪趣)が蔓延すると、神々は「この国にいても仕方がない」と住まいを更地にして帰ってしまうという。しかもそれは、「勘の鋭い者だけに分かる形」で静かに、しかし確実に始まっている。お守りも風水も、悪に染まった人間には一切効かない。
さらに和尚は、世間で話題になった「2025年7月の大災害」の真相にも触れた。実はあの時、裏で陰ながら全力を尽くし、災いを食い止めた人々がいたという。しかし世間の反応は「何も起きなかったじゃないか、嘘つき」という冷酷なものだった。その声に絶望した和尚は、「もう、次の災いを止めるのはやめようか」と思ったという。
「この国から、世界が変わる」「聖人所を辞す」――すなわち、これまで役目を担ってきた聖人がその役目から退くという出来事が起きれば、経典に記された本当の試練――大飢饉と混沌の「次のフェーズ」が幕を開ける。
2026/9/3
仕事を退職してから、YouTubeを見る機会が増えた。 もともと映画が好きだったこともあり、久しぶりに『奇跡のリンゴ』を観直したのがすべての始まりだった。
以前から、無農薬リンゴを完成させた木村秋則さんの逸話はYouTubeでも大きな話題になっていたようだ。そこから関心は自然と広がり、月刊『ムー』の三上丈晴編集長や、元スーパー公務員として知られる高野誠鮮さんの対談へとつながっていく。
特に強烈だったのが、高野さんが木村さんから聞いたという「UFO内で見せられた地球のカレンダー」の話だ。そのカレンダーは2032年で途切れていたという。さらに「日本の北の方角から地球の指導者が現れ、世界を導く」という予言のような話につながっていく。
一方で、神人氏の著書『死後の世界の真相』を開けば、現在の地球は「小学校から中学校へ進級するような、かつてない大転換期」にあるという。
では、その「北から現れる指導者」とは一体誰なのか? すでに名を知られた木村秋則さんや矢作直樹さん、秋山眞人さん、保江邦夫さんといった第一人者たちではないとしたら——。
その問いの答えのように現れたのが、北海道在住の「愛理(どさんこ☆宇宙人)」さんだった。のぶみさんのYouTube出演をきっかけに知った人も多いだろうが、彼女は宇宙人だった記憶や数々の前世の記憶を保持したまま生まれてきたという。 語られる内容は一見すると破天荒だが、これまでの探求の流れに驚くほどピタリと符合する。 著書『全肯定〜新時代のバイブル〜』を読んでみたが、従来の霊能者たちの語り口とは一線を画していた。「人は誰しも元を正せば宇宙人」という前提に立ちつつも、その視点は突き抜けている。点と点がつながり、新しい時代の足音が確かに聞こえてくる気がした。
2026/9/4
武術の「氣」とホロコーストの記憶が交差する場所──「愛の反対は無関心」の本当の意味とは?
「氣を操る」「相手に技をかけるときに“愛”が必要になる」──。 一見するとスピリチュアルやファンタジーの世界の話に聞こえるかもしれません。
しかし、現代の武術界や物理学の世界では、この「愛」という感情が実際に相手を制する重要な鍵として真剣に議論されています。
武術界で話題の「アストラル武術」と保江邦夫氏の理論
2024年8月〜9月にかけて、武術家や格闘家の間で興味深い対談が話題を呼びました。 俳優の榎木孝明氏と、物理学者であり武術家でもある保江邦夫氏、そしてシステマの北川貴英氏や格闘家の菊野克紀氏らによるコラボレーションです。
保江先生は、身体を取り巻くエネルギー(エーテル体やアストラル体)について次のように語っています。
「相手に敵意を持っていたり『くそったれ』と思っていると、アストラル体は出ていけない。穏やかな気持ちになって世のため人のためみんなのため…こうすると勝手に出ていくんです」
敵意を捨て、相手と一体化するような穏やかな心を持つことで、相手の体が抵抗を感じなくなり、結果として技が掛かる。保江先生はさらに、誰ツヨDOJOy(菊野克紀氏のチャンネル)等の対談の中で「愛の気持ちが降りてきている人には空間が味方してくれる」とし、「愛の反対は憎しみではなく無関心だ。だから相手に関心を持つだけでいい」と言及されています。
武術の極意が「相手への関心(愛)」にあるという視点は非常に刺激的ですが、ここでひとつ気になるフレーズが出てきます。
「愛の反対は、憎しみではなく無関心である」
この有名な言葉、一体だれが言ったものなのでしょうか?
「マザー・テレサの名言」は勘違い? 出典を巡る歴史
日本では長年、この言葉は「マザー・テレサの名言」として知られてきました。しかし、英語圏の文献や歴史的資料を紐解くと、少し異なる事実が見えてきます。
1. 原作者はホロコースト生還者のエリ・ヴィーゼル
この表現を明確に記録に残したのは、ノーベル平和賞受賞者であり、ホロコーストの生還者である作家エリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel)です。 彼は1986年の『U.S. News & World Report』のインタビューで、次のように語っています。
“The opposite of love is not hate, it’s indifference.” (愛の反対は憎しみではなく、無関心である)
15歳でアウシュヴィッツに送られ、家族を失ったヴィーゼルは、ナチスの残虐性だけでなく「虐殺を知りながら沈黙し続けた世界の無関心」こそが悲劇を拡大させたのだと訴えました。彼にとって無関心とは、「被害者を見捨て、加害者を利する最大の罪」だったのです。
2. なぜマザー・テレサの言葉として広まったのか?
マザー・テレサ自身も、カルカッタのスラム街での活動を通じ、「貧困や病気以上に恐ろしいのは、誰からも必要とされていないという孤独(無関心)だ」と繰り返し語っていました。 思想の根底にあるものが極めて近かったため、日本では内容が混同され、マザー・テレサの発言として広まったと考えられています。
(※さらに遡ると、1930年の教育家A.S.ニイルの著書にも同様の記述が見られるため、複数の思想家が独立してこの結論に達した可能性もあります)
2つの「無関心」──歴史の悲劇と武術の極意
- エリ・ヴィーゼルの「無関心」:歴史的・政治的な沈黙であり、他者の存在を無視する悪への加担。
- マザー・テレサの「無関心」:人間の尊厳を奪い、孤独の底に突き落とす精神的な殺意。
そして、保江邦夫氏が武術の文脈で語る「無関心」は、これらと表裏一体の現象を意味しています。
相手を単なる「倒すべき敵(対象)」として憎むか、あるいは「自分とは無関係な存在」として無関心でいる限り、自分のエネルギー(アストラル体)は開かれません。しかし、相手に心を開き、関心を持ち、一体化しようとするとき、そこに「愛」が発生し、力づくではない形で相手を制することができる──。
武術における物理的な「技の成就」と、歴史や宗教における「人間の救済」。 一見まったく異なる世界でありながら、「無関心を捨て、相手に関心(愛)を向けることこそが局面を変える」という真理で、見事に合致しているのが非常に面白いところです。 日常の人間関係でも、「相手を倒そう(論破しよう)」としたり「無視しよう」とするとうまくいきません。相手に純粋な関心を向けること──それこそが、現代社会を生き抜く最強の「アストラル武術」なのかもしれません。
2026/9/9
ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネスを観た。
また、すべてが見える系の人が書いたか、原作者に教えたとしか思えない。
「また」と言うのは、『マトリクス』は、完全に、おかしいでしょう。あんな映画を作ることが出来るのは、おかしいですよ。この世とあの世の仕組みを、あんなにうまく表現できているということが。
今回の映画も、同じ感覚になった。
多次元宇宙を描いている。それがメインです。そこを行ったり来たりできたら、どうなるか。
これはもう、言ったらいけないことを言ってしまって、多次元宇宙を行ったり来たりできるんだから、これはSFですよと、ごまかしている。
見えない世界が見える人が、世界にも、何人か居るのですね。
でも、この映画も、来るべき人類の進化への教育かもしれません。
分かる人に分かればいいということでしょうか。
